みかんのおはなし部屋。

難病(脊髄小脳変性症)と共に生きながらゆるりと頑張っています。

【闘病記録】一年間と私のはなし。

※別サイトで書いていた記事を再掲したものです。

 

前回の更新から1年ぐらいが経ちました。お久しぶりです。そして多分これからはちょくちょく更新できる(したい)と思います。※理由は後述

さて。
この1年で変わったことといえば、自分が難病を発症したことだなあと思います。
ざっと去年から今年(2022年)に起きた事を記録のために書き記しておこうと思います。たぶん長い。めちゃくちゃ長い。全然ざっとじゃない。

今回は病気に関することのみを書きます。
またどこかで病気と共存しながらオタ活をする(してる)話を書きたいな。だって苦しみながら生きるんだから、苦しいしんどいばかりじゃなくて楽しい話もしたいよね。横浜までAぇ! groupのコンサートを観に行った話もしたいし。
とりあえず、ぴあアリーナMMの周辺はエレベーターが少なすぎることだけは書いておきます。せめて階段を少なくして欲しいね…。あと最高にHOTなおてんとコンのDVDが受注生産で買えるので買って下さい!よろしくお願いします!🔥(宣伝)
https://j-island-store.jp/s/ji/item/detail/JIBA-0044

ですので、今回は全然面白さゼロ・明るさもゼロの私の闘病記録(そんな大層に言っていいものかしら…)です。
私の病気について興味がある方だけお進みください。本当に楽しい話が微塵もない…。

2021年の10月頃――祖父がコロナで亡くなったあたりからよく転んだりつまずいたりするようになりました。
歩いていたら急に膝からかくん、と力が抜けて転倒したのです。突然のことにびっくりしましたが、私はなんとなく「あ、坐骨神経痛かな?」と思ってしばらく放置していました。
なぜかというと、それより前の去年6月に腰椎椎間板ヘルニアを発症しており、ヘルニアから坐骨神経痛で足の痺れがあったりすることを知っていたからです。
とりあえず転倒を防ぐために折りたたみ式の杖を買いました。まだなんとか自分の足でバランスは取れている(と思いたかった)けれど、ふらつくことが増えたからです。

初めて杖歩行した日のことはとてもよく覚えています。
人の目線がとても気になる。顔見知りでもない奥様に「若いのに大変ねえ」と声をかけられ、子供からは「おばあちゃんこんにちは!」と悪気なく言われる。出来るだけ若者らしい色味で選んだけれど、杖を持ってること自体に不思議な目を向けられる。それが一番最初に辛いと感じたことでした。次第に、身体がふらつくくせに近場では杖をつかなくなりました。つく時は長距離移動の時のみ。

杖は一時的なものだから――そう思って我慢して過ごす日々。
だんだん、こんなにふらつくのはおかしいのでは?と思いはじめ、ヘルニアで通っている先生に症状を伝えるも、伝え方が下手だったのか「ヘルニアから痺れが来ることはあるよ」と言われました。
じゃあいつか、杖を持たなくなれるかもしれない。ヘルニアも手術してから(2022年1月末、薬剤注射による手術済)ひどくなってないし……そう思いつつも、年始に行ったコンサート(関西ジャニーズJr. THE BEGINNING〜狼煙〜 愛知公演)で感じた身体の違和感が心のモヤモヤを増幅させました。

公演会場である日本ガイシホールは私の住む福岡からはかなり遠い場所(そりゃそう、愛知だもん)にあり、公演会場への道もかなり歩く距離があります。
当日は人でごった返し、杖歩行していたら杖を蹴られることもありました。足のふらつきと共に、長距離を歩けなくなっていた私は(長距離を歩くと冷や汗が出て体調が悪くなる症状が出ていた)(元々人より疲れやすい体質だった為、「まあいつもこうなるし…」と遠征は可能と判断していた)1日目はなんとか終えられても、2日目には疲れがかなりピークに達していて、そのイライラから一緒に同行してくれた親友(以下、Aちゃん)に冷たい言葉を浴びせるなど、心身ともにかなりひどい状態になってしまいました。
それが受診の決め手でした。本当にあの時はごめんね……。

母にその受診について相談すると、とんでもないことを言われました。

「お父さん脊髄小脳変性症だから先生に言った方がいいよ」

いや待って!?知らない!!なんで黙ってたの!?
でもそれを聞かされた時はまさかそんなはずは……と思いました。でも祖父(諸事情により会ったことがない人)もなっていてそれで亡くなったらしい。いやなんでそれも黙ってたのよ。

父は昨年2月に脳出血で意識不明になっていました。
今現在も意識が戻らないまま病院に居ます。父は私が幼稚園の時に心筋梗塞になり、そのあとうつ病を患って、糖尿病になり、人工透析をしていました。私はてっきりそれで身体が弱っていた(リハビリも全くやる気がない人だった)のだと思っていたのですが、身体の弱りは脊髄小脳変性症から来ているものだったのです。なぜ言わない…。

普段から通っている総合病院の整形外科でその話をすると(脳神経内科でちょっとトラウマがあったので先にそちらを受診した)、すぐに脳神経内科に連れて行かれました。そりゃそうだ。
その時点でも私は「まあお父さんがそうだからといって…」と思っており、神経系の病気だったとしてもいつかは治るだろうと思っていました。多分みんな同じ境遇ならまだそう思うはず。

検査をし、後日結果を聞きに行きました。治療をして杖をつかない生活を望みながら。
先生は「この病院じゃできない検査(遺伝子検査など)をしないと病気が分からない。検査をしても病気が判明しないかもしれない。検査をしないという選択肢を取ることも出来るけれど、どうする?」というようなことを言いました。

どうする…どうするって、なに?

そんなこと言われるとも思ってないので、病院にはひとりで説明を聞きに行っています。えっまじ?今何言われてるの?と頭は混乱します。 

おそるおそる先生に聞いてみます。
「先生。治療すれば、リハビリすれば、杖はつかないで生活できますよね?」
「……杖をつかなくなることはないと思う」

なんとか、泣くのを我慢しました。
だってもう25歳だし。精神疾患があるけどいま調子良くなってきてるし。また再就職出来るように調整してるところだし。大人だし。大丈夫、泣かない、泣かない。

先生は家族と相談してから決めて下さいね、と言って、その日の受診は終わりました。診察室を出たら、ちょっと泣いちゃった。まあ、そりゃそうです。

病院から母に電話しました。相談するように言われたけど、もう心は決まってました。
「お母さん、私検査したい。何年掛かっても、結果出なくても、検査したい。やれる検査は全部したい。お母さんはどう思う?」

私と母(そして父)の関係は仲が悪いわけではないけど特別良いわけでもない、といった関係です。
うちの家族は、というか私と弟の両親への認識は、多分普通の家庭とは違うものだと思います。その証拠に私と弟は高校卒業後すぐ地元を出て一人暮らしをしています。
それでも大事なことは話し合ってきました。
父の延命治療はするのか、祖父(母方・コロナで亡くなった方)のお別れ会はするのか――その他諸々も一緒に決めてきました。そういう感じの関係性です。実家のいろんなことやるのも決めるのも、母にとっては弟よりも近くに住む私に頼みやすかったのもあると思います。

一緒に決めたけど、今回は私の意思を貫く覚悟でした。たった数分前に先生から言われたことだけど、絶対検査しないと後悔すると思ったから。

母は言いました。
「検査した方がいいよ」

春、私は母と一緒に大学病院へ行きました。
症状や検査結果的にも脊髄小脳変性症の兆候は見られず、念の為にと遺伝子検査の採血をして検査入院を7月に決めました。

その頃には日常的に杖をつかないと歩けない生活が始まっていました。それでもまだ頭の中には元気だった私の状態がちらついていて、検査入院が終わったら再就職の準備に取り掛かろう、在宅の仕事を探そう、と就労相談員さんとも話していました。

同時期、Twitterで初めてそういう話を呟きました。
普段Aぇ! groupのことばかりでうるさい私ですが、その頃には絵を描くことに体力をかなり要するようになっていたので、絵をアップできない言い訳にも近かったと思います。病名判明までに長期戦になることを覚悟していたのでそれを誰かに打ち明けたかったのもあります。

その呟きに反応してDMをくれた友達がいました。
その子(以下、Bちゃん)は他のグループを応援していた2015年頃からのTwitter上での友達で、実際には会ったことはないものの、お互い絵を描くこともあり絵の交換を手紙でしたりなどの交流が何年も続いていました。
イラストレーターとしても活動されていたので(というか私が絵柄の大ファンで)そのグッズも購入するぐらい大切で尊敬している人です。
BちゃんはDMで自分が長い間癌を患っていること、その癌も珍しいもので治療がうまくいってないことをそっと教えてくれました。そんなことは彼女のツイートから感じたことは一切なかったので驚きつつも、自分も闘病している中で私に声をかけてくれたことが心から嬉しくて、ふたりだけの体調に無理をしないDMのやり取りが始まりました。
いつか会ってお互いの顔を見ながら話せるといいな、と思いながら、そのやりとりは私からの7月の返信まで続きました。

6月に入り、私の容態は急変します。
友達(高校時代からの親友Cちゃん)宅に泊まった次の日の朝、急に足に力が全く入らなくなり、立てなくなりました。
今までもしゃがむと立ち上がりづらいということは何度かあったものの、立ち上がれないことは初めてで、ひとりでトイレにも行けずCちゃんに介助してもらってなんとか用を足すことができたレベルです。手指も動かしづらく力も入らないので、Cちゃんが作ってくれた朝ご飯は箸が使えず、スプーンでなんとか口に運ぶ状態です。こんなことは初めてで、気が動転していました。

Cちゃんのすすめで、一旦、実家に帰省することになりました。

実家に帰っても症状は全く変わらず、重いものも持てなくなったので食べる容器は全てプラスチックに変えてもらい、スプーンもプラスチックや軽い金属のものにして検査入院の日を待とうと思っていました。
いずれ調子が戻る、と思っていたのですがやはり変わりません。私は焦ります。なぜなら坂本くん主演のミュージカル(共演にAぇの末澤くん)「THE BOY FROM OZ」の観劇が検査入院の少し前に決まっていたからです。末澤くんが出るから見たい、というのもありましたが、ミュージカル観劇が趣味の私は「坂本くんのミュージカルを死ぬまでに見る」というのが夢のひとつであり、それをやっと成し遂げられる――!と、めちゃくちゃ、それはもうめちゃくちゃ楽しみにしていたからです。でもこんな状態で東急シアターオーブに行けるのか…?という気持ちもありました。
ガイシホールの反省を生かし、会場のすごく近くにホテルもとっている。大丈夫。でも、やっぱり現実的ではないのでは……と思っていたところ、状態を見かねた叔母(父の妹。別の難病を患っている)が大学病院へ連絡するように言いました。まあ、そりゃそうなんです。そりゃそうなんだけども。

連絡すると、すぐに病院を受診するようにと先生の指示。
検査入院は結果的に早められ、私はOZのチケットを病室からAちゃんに郵送して私の夢を託しました。

検査入院は6月中旬から7月初旬まで。
元々の日程は7月から入院予定(これは遺伝子検査の院内結果がその頃には出てるだろうという理由)だった為、予定よりもかなり早まり検査内容も増え、絞れるはずの病名も絞れないまま日々が過ぎていきました。
症状的にも元々先天性の感音性難聴と弱視があるため、ミトコンドリア脳筋症(MELAS)が第一候補に上がっていました。検査を毎日しつつ、先生のチームはいろんな病気の候補を削っていく…という流れです。私も先生達の話振りからMELASなんだろうなあ…と思いながら入院生活を送っていました。

MELASなどの確定診断には筋生検という検査が必要になることがあります。これは腕の筋肉を麻酔をかけずに切り取るというかなり痛い検査…と説明を受けました。すぐにして下さい、と言ったものの、筋生検には東京の検査機関と連携を取らねばならず今回の入院では難しい、と言われたのです。
やっぱり長期戦になるんだ、と確信して、説明室から病室へ戻ると大部屋の仲間が迎え入れてくれました。

大部屋は人の移り変わりが激しいものの、窓から見える位置にベッドを置いてもらった為(当初は違う部屋でカーテンで仕切られており、メンタルの方がやられてしまったので入院中部屋移動になった)みんなで楽しく話しながら入院食を食べたりと、とても楽しい入院生活を送っていました。
その中でも特に隣のベッドのDちゃんとその隣のEさんが仲良くしてくれ、Dちゃんは自分もきついのに私のできない力作業をやってくれたり、Eさんは父と同じ病気であることもありよく親身になって話を聞いてくれました。

退院も間近に迫った頃、2回目の説明室に呼ばれました。
そこで告げられた病名は「脊髄小脳変性症3型(SCA3)」……すなわち、父と同じ病名でした。(父は遺伝子検査をする前に意識不明となっているので正確に言えば父と同じ病名であろう、という感じ)
院内検査で出た結果で、まだ確定診断ではなかったのですが、一番私の予想の片隅に追いやられていた病名に一気に殴られた気分でした。
入院中は泣いてしまうことが多かった私ですが(25歳泣かないんじゃなかったのか?)(やっぱり泣いちゃうもんよそれは)、この説明で一番泣いた記憶です。

顔の知らない祖父も、父も、なった病気。
祖父はそれで亡くなってるし、父は弱っていくのを見ている。同じ病室のEさんは先輩患者なので自分がどうなっていくのかが分かる。想像がつく。私も杖どころじゃなくて車椅子になって、歩けなくなって、手も指が動かしづらいどころじゃなくてかなり震えるようになって、力も入らなくなって、言葉も喋れなくなっていくのかな。いずれ遠征がきついどころか外も出れなくなって寝たきりになるのかな。うわ、それきついな。みんながみんな同じ症状が出るとは限らないにしても、少なくとも血は繋がってる父とは近い症状が出るんじゃないかな。あー、そりゃ転けるよ、高校の時お父さんマンションの階段で転けてたもん。あの頃からどんどん足弱っていったもん。いやリハビリ頑張ってない親父はそれ以前の問題かもだけど(入院中私はリハビリ皆勤賞でした)。
あーーーーそっかあ、そうなんだなあ、そっか………………………。

そんな感想が、先生からの説明を聞いた時に一気に頭をよぎって、涙が止まらなくなりました。
予後を知っているからこそ、自分の未来も見えてしまう。なんだか分からなかった敵の正体がもやの中からはっきり見えた気分。あーそっか、お前だったのか。私、お前とこれから闘い続けるんだ。勝ち目あるかな。治療法ないんだよなあ。

それからいろいろあって(めちゃくちゃ端折る)、今に至ります。
確定診断は8月末。再検査の血液が検査機関に行って、結果が出たのがまだセミもうるさい真夏でした。
その頃には受け入れる……いや正直まだ受け入れられてはいないんですが、諦観してるというか、淡々と自分の説明が出来るようになっていました。ネット上にある文献はほぼ全て読んだと思うし、論文も読めるものは読みました。もちろん医師ではないので用語は分からないものが多いけれど、なんとなく理解は出来るようになってめちゃくちゃ詳しくなりました。
本当は闘病垢をTwitterで作ろうかと思ったんですが、検索してみたら気が滅入ったのでお知り合いの同じ病気の患者さんはEさんだけです。別に何かのコミュニティに入る必要性もないかな。心が弱って変な霊感商法に走りそうになったら誰か止めて下さい(?)

検査入院から退院した後、闘病仲間のBちゃんに「遅くなってごめん!」とDMを返信しました。
Bちゃんからの返信は返ってきません。私はなんとなく調子が悪いんだろうな、とか、もしかしたら……と思っていました。
私が検査入院している頃、Bちゃんも闘っていました。

きっとボロボロになりながら、自担の映画の公開を心待ちにしながら、すごくすごく頑張っていたんだと思います。自分のことで精一杯になって、DMの返信遅れてごめんね。一番最初に病名を言うのはBちゃんだと決めていたのですが、それは届かない報告になりました。
いやもしかしたら向こうから「みかんちゃんもっと早く言いなよ!?」って思ってるかもしれないけど。思ってるだろうなあ。向こうのテレビではチャリティー番組見れたのかな。私の自担とBちゃんの自担の間接的共演だったね。お互いの苦しい話ばかりじゃなくて、そんな話したかったんだけどな。てか2015年から知り合いなのに仲良くなるの遅すぎたんだよ。

ほんと、全部遅すぎたなあ。

私に最初に出来た闘病仲間はとても頑張っていたので、(私は性格上どうしても暗いので同じようには出来ないけれど)私も私なりに、ギリギリまで、動けるまで、好きなことを楽しくしよう!と思うようになりました。
だから体力はきついけど行ける範囲のコンサートや舞台は行きたいし、今度スカパラのライブに行ってきます✊(人生の中で一度は行きたいライブリストをひとつずつこなしている)

いろいろな事情があり最後にリハビリした7月から今月になるまでリハビリが出来なかった(させてもらえなかった)んですが、今月からリハビリも始まりました。お仕事は難しいけれどどうにか社会とのつながりを保てないか模索もしています。事情があって一人暮らしはこれからも継続することになりますが、近々ヘルパーさんも入ってくれる予定です。全てをおまかせにせず、まだ出来ることは一緒にやっていきたいなとまだ見ぬヘルパーさんへラブコール。

正直、死にたいなと思うこともあります。元々希死念慮があるタイプの人だったので、こんなに苦しいなら早く楽になりたいなと思うことも多いです。
先輩患者のEさんが前に言ったことを思い出します。「私たち死にたくても死ねないんだよね」。本当にその通り。
だから趣味でもご飯でもなんでも、楽しいと思えること、嬉しいと思えることを大切にして、あるいは間に合わせの生きがいにして、日々を生きていくしかない。

今年から障がい者と呼ばれる人になりました。
本当はもっと前からその区分に居たんですけど、自覚が芽生えたのは身体(読み:しんたい)の障がいが出てきてからだなと思います。
でもこんな呼び方本当は無くなればいいのになと思います。あなたも私もただこの時間に、この世界に、同じように存在しているただひとりの同じ人間だから。(サービスを利用させて頂いてる身なのでこんなこと言っちゃダメなのかもしれないですが…)

それとチャリティー番組でいろんなことを頑張ってる障がいを持つ方に「感動をありがとう」という言葉も(元々あまりその表現が好きではなかったのですが)よりちょっときついな…と思うようになりました。
頑張ってる方々は何も悪くなくて素敵で輝いていると思っていますが…感動を与える“ために”やってるわけではないよなあ…と思うのは私が細かすぎるのかもしれないですね。
(これは一個人の意見なので自担たちはこれからもお仕事で関わって欲しいです。来年もよろしくお願いします!どうか!)

今年はいろいろと物の見え方が変わった一年でした。
きっとこんな長文をここまで読んで下さった方も私の見え方が変わってしまったかもしれません。ただのイラストを描くうるさいオタクから頑張ってる人になってしまっただろうなあ、と思っています。それがTwitterで病気に関する発言をそこまでしていなかった理由です。

でも、多分、隠しきれなくなる時が来てしまうと思いました。もうすでに来はじめてるし。

だから8割くらい全部書いてしまいました。残りの2割はまあ、その、言うのが恥ずかしいこともあるので…笑

これからジャニーズの現場や、それ以外で、杖をついてる私を見かけるかもしれません。杖がいつか車椅子に変わる時もあると思います。その時は私のことを特別視せず、普通に扱って頂けたら嬉しいです。見なかったふりをしてもらっても大丈夫です。でももし困ってたら声をかけてもらえたら嬉しいです(どっちやねん!と思いましたよね、すみません…笑)

そして多分絵を描くのも辛くなってくると思います(更新頻度が明らかに落ちてるのはもう既になってきてるからでもあります…)
その時はフォローを外していただいても大丈夫です。本当はもっと好きな顔をたくさん描きたいけれど、、、

とにかく、私は今そんな感じです!という長文のご報告ブログでした🙇‍♀️

これからもこそっとはてブロを更新したりしなかったりします☺️

2022/12/09
みかん

検査入院中は小島くんのアクスタと一緒に過ごしていました。元気が出るね。

舞台「染、色」の感想(ネタバレあり)

※別サイトで書いていた記事(2021年6月27日)を再掲したものです。

「秋に咲く桜って知ってる?」

美大に通う深馬は首席で入学、作品は一定の評価をもらい、両親は創作活動に理解がある。彼女もいる。気のいい友達も、相談に乗ってくれる優しい先生も。
一見、何不自由ない人生かのように思われたがその心中は――。

  • 染、色について(おおまかな流れ)
  • 結局真未とはなんだったのか?
  • 北見と深馬
  • 原田と滝川、原田と北見・深馬
  • 杏奈について
  • その他私が見ながら思ったこと

 


舞台(戯曲)「染、色」を観劇しました。(原作拝読済)

友人達が先に“染まって”いたので、その感想などをふんわりと聞きつつ登場人物に想いを馳せながら観劇当日を迎えました。
私は小島健くん(ジャニーズJr.・Aぇ! group)のファンなのですが、同時に彼の元シンメ(相方)の正門良規くんのお芝居が大好きな人間でもあります。映像のお仕事の回数は多めな正門くんが初めて主演舞台に挑む――。この機会を逃さないわけにはいかないと、今回大阪に馳せ参じた次第です。

感想ですが、一言で表すなら「何もわからない」でした。
観劇途中までは「うんうん、なるほどね、そういうことね」と思っていましたが、最後の十数分間(時計は見てないので体感時間です)で抱いていた感想が秒で吹き飛んでしまいました。この感覚は「そうきたか!」と興奮と震えに繋がり、観劇終了後は足元がおぼつかないほどどうやって帰ったか思い出せないくらいの衝撃だったのです。

正直、この状況下でなければ舞台関係者の目に止まって、この衝撃が話題なっていたのではないかと思います。悔しい。素直に悔しい。

これは単なる青春偶像劇でもジャニーズの舞台でもありません。「染、色」という話の組み立てから伏線回収までが完成されたとんでもないヒューマン・ストーリーです。
迷っている方がいらっしゃれば、ぜひ生で体感して欲しい。熱と呼吸と体温をその身で感じて頂きたいのです。配信を望む声もありますが(もちろん私も配信で見てみたい気持ちもありますが)できればこれは生で見て欲しいと思うばかりです。

長々と失礼しました。
ここから先はかなりネタバレが多くなりますので、観劇予定の方やご自身の解釈以外の情報を得たくない方は本ページから離れて頂ければと思います。

続きを読む